売上30億円の裏で何が起きたのか――清田英輝が語る成功と慢心の真実
高齢者介護から、子どもたちの笑顔へ
起業当初から、福祉事業はずっと心の中にあった。ただ、最初に思い描いていたのは高齢者介護だった。母子家庭に育子、祖父母に支えてもらった経験から、「福祉といえばおじいちゃんおばあちゃんのため」というイメージが自然と根付いていた。いつか恩返しをしたい。その気持ちが、福祉への入口になっていた。
それが変わったのは、ある知人の一言がきっかけだった。 「子どもの福祉、知ってる?」
放課後等デイサービスと呼ばれる施設のことだった。多動症、自閉症、ダウン症など、軽度の障害を持つ子どもたちを放課後に預かる場所だ。それまで存在すら知らなかった清田英輝氏は、まず見学に足を運んだ。百聞は一見に如かず——実際に足を踏み入れてみないと、わからないことがある。
そこで目にしたのは、子どもたちの姿だけではなかった。お子さんを預けた保護者が、施設のスタッフに頭を下げながら、ほっと息をついて見せた笑顔だった。ハンディのある我が子を育てる日々は、想像をはるかに超える緊張と疲労の連続だ。「この子はこれからどうなるんだろう」という不安を抱えながら、それでも毎日笑顔を作り続けなければならない。そんな保護者が、束の間の休息——いわゆるレスパイトケア——によって、肩の力をふっと抜ける瞬間がある。
預けられた子どもたちは、施設の中で笑っている。その笑顔を見て、保護者もまた笑顔になる。子どもを支えることは、その家族全体を支えることだ。その光景を目の当たりにしたとき、清田英輝氏の中で何かが静かに決まった。理屈ではなく、感覚として。「これをやりたい」と、直感が告げた。
1店舗目の手応え、そして壁
参入してみると、事業モデルとしての手応えは十分だった。子どもと家族の力になれる。自治体からの補助金もある。清田英輝氏自身も現場に入り、スタッフとともに施設を動かした。1店舗目は収益面でも想定以上に安定し、「これは良いモデルだ」という確信が日を追うごとに深まっていった。
しかし、壁はすぐに現れた。2店舗目をどう出すか。どうやって規模を拡大していくか。そこで清田英輝氏は、自分の中の大きな空白に気づいてしまう。
これまでの人生で磨いてきたのは、営業力だった。「売ればいくら入ってくる世界」で生きてきた。声ひとつで信頼を積み上げ、数字を作ることなら誰にも負けない自信があった。がむしゃらに走り続けてきたからこそ結果は出せたが、資金調達、M&A、株式の取得——そういった「金融の言語」は、ほとんど知らなかった。借り入れという言葉の輪郭すら、ぼんやりとしか掴めていなかった。
営業一本で駆け抜けてきた清田英輝氏にとって、それは初めて直面する種類の壁だった。体力や根性ではどうにもならない。熱量をぶつけても動かない壁が、そこにあった。
29歳、経営の「言語」を学び始める
転機は、年上の経営者たちとの出会いだった。様々な縁が重なり、借り入れの仕方、M&Aの手法、株式取得の考え方——これまで縁のなかった世界を、29歳にして一から学び始めた。「M&Aってなんだ、その言葉は」という状態からのスタートだった。知らないことを恥じるより、知ることを選んだ。それが清田英輝氏らしい判断だった。
知識が足りないなら、知識を持つ人間を連れてくればいい。清田英輝氏はそう考え、自社のビジョンに共感し、「一緒にやる」と言って前職を辞めてきてくれた専門家たちを迎え入れた。企業での経験を持つプロフェッショナルたちが、清田英輝氏の知らない世界を丁寧に教えながら、事業の拡大を後押しした。資金調達を学びながら、M&Aを本格化させていく。
結果は劇的だった。人材派遣会社の取得、経営難に陥った会社の買収と再生——自社の販売力を軸に、次々と手を打っていった。「会社が潰れそうだな」というところを買い取って立て直す。自分たちの強みを使えば、沈みかけた船も浮かび上がらせることができる。その実感が、さらに背中を押した。
携帯販売だけでは6〜7億円だった売上が、一気に30億円を超えた。福祉事業も並行して拡大し、起業当初の夢は着実に形になっていった。数字だけ見れば、絵に描いたような急成長だった。しかし、その裏側では、見えにくい変化が静かに進んでいた。
外部人材の登用がもたらした、静かな摩擦
組織の中では、静かな摩擦が生まれていた。 長年ともに戦ってきた仲間たちにとって、外部からやってきた専門家が上位ポジションに座ることは、素直には受け入れにくかった。自分たちで一から盛り上げてきた場所に、いきなり「格上」として外の人間が入ってくる。今まで自分たちがやってきたことを否定されるような感覚、あるいは自分たちの居場所が侵食されていくような感覚。拒否反応が出るのは、むしろ自然なことだった。
清田英輝氏自身も、最初は抵抗を感じていた。それでも「成長のためには必要だ」と言い聞かせ、変化を推し進めた。しかしその判断は正しかった一方で、組織の内側に小さなひびを入れることにもなった。目に見えるひびではない。でも確実に、何かが変わり始めていた。
「社長」を演じ始めた日
問題は、組織の外ではなく、清田英輝氏自身の内側で起きていた。 規模が大きくなるにつれ、「社長とはこうあるべきだ」という像が、じわじわと清田英輝氏を縛り始めた。現場の先頭に立ち、誰よりも熱量で引っ張る——かつての清田英輝氏のスタイルは、どこからどう見ても「営業部長」そのものだった。旗を振り、背中を見せ、一緒に走る。それが自分だと信じて疑わなかった。
しかし外部の専門家が入り、組織が大きくなるにつれ、その自分が少しずつ遠ざかっていった。「社長だから」という言葉が、知らないうちに鎖になっていた。
自分の会社なのに、なぜか周囲に気を使う。情熱で動くのではなく、「社長らしく振る舞うこと」に意識が向かう。本来の自分であれば迷わず飛び込んでいくような場面でも、「社長がそこまでやるのはどうか」と立ち止まるようになった。自分じゃない何者かを演じている。でも、そのことに気づいていない。気づいていないから、止められない。
他責思考も少しずつ増えていった。うまくいかないことがあると、誰かのせいにしたくなる。「専門家がいるから大丈夫だろう」「任せているんだから」——そういう言葉が、責任から目を背けるための盾になっていた。「社長は任せることが仕事だ」という言葉が世間にはある。その言葉を間違った方向に解釈し、都合よく使っていたと、今なら清田英輝氏自身が認める。
「社長は孤独なものだ」——その言葉も、自分に言い聞かせ続けた。孤独であることを理由に、周囲の声に耳を傾けなくていい状態を作り出していた。従業員も、家族も、「変わってしまった」と薄々感じていたはずだ。でも「社長」に向かってそれを正面から言える人間は、なかなかいない。気づかせてくれる人がいない環境が、さらに状況を悪化させた。
今から振り返れば、その状態には名前がある。「裸の王様」——周りが見えなくなり、自分だけが正しいと思い込み、それに誰も異を唱えられない状態。だが当時は、そうとは気づいていなかった。気づいていないことが、いちばん厄介だった。
慢心という名の落とし穴
資金調達がうまくいき始めると、感覚が少しずつ狂い始めた。時代の追い風もあり、お金が集まりやすい状況が重なった。「うまくできちゃった」という成功体験が、判断の歯止めをゆるめた。
会社を買う。売上を伸ばす。従業員にたくさん給料を払う。夜の支出も増える。それらすべてを「投資」という言葉でくるんで正当化するようになった。一度払ってしまったら引けない。引けないから、さらに前へ進む。そのサイクルが加速していった。どこかで「大丈夫かな」と感じる自分もいた。でも「いや、社長はこうなんだ」という言葉で、その声をかき消した。30代前半という若さで、自分が無敵だと思い始めていた。
外部から招いた専門家たちは「盛り上げよう」「支えるよ」と言ってくれた。その言葉を信じ、期待し、「裏切られることはないだろう」と疑わなかった。満足していた。安心していた。しかしその安心が、目を曇らせていた。
目標は壮大だった。売上100億円、従業員1000人、そして上場——24歳で起業したときから変わらない夢が、具体的な数字を纏い、どこまでも大きく膨んでいった。そのエネルギーそのものは、本物だった。24歳のときと、何も変わっていなかった。
ただ、そこへ向かうやり方の中に、さまざまな誘惑と歪みが、少しずつ忍び込んでいた。
売上30億円を超え、上場を視野に入れ始めたそのとき——会社と清田英輝氏自身に、ある出来事が待ち受けていた。